学生時代の自転車の賞状
大学時代に、自転車競技をしていました。
と言っても、はじめたのは、1年の終わりからなので、短い期間だった。
大学生で強い人は、高校から自転車をやっているとか、猛練習をしている人とかである。
唯一、学生の大会で貰った賞状が二つありました。
それは、東日本の新人戦のスプリントの物です。
新人戦とは、自転車を始めて1,2年目の学生が出ることのできる大会です。
なので、通常は、1年生と2年生なのですが、僕は2年からなので、2年生、3年生のときに出場しました。
特にスプリント選手ではないのですが、スプリントと言う競技に出てみたのです。
スプリントの競技とは…
まず、予選があります。
予選は、一人で走ります。
だいたい競輪場を2週するのですが、最後の200mのタイムを計測します。
上位8名が次のラウンドに進めます。
次のラウンドは、一対一の対決になります。
予選で1位の選手と8位の選手、2位の選手と7位の選手という風に、これも競輪場を2週して先にゴールした方が勝ちになります。
先に2勝した方が、トーナメント方式で勝ち進んでいきます。
順位を決める必要があるので、最初に負けた人(5位から8位に属する人)は、4名同時にスタートして、その着順で順位が決まります。
とてもシンプルでは、ありますが、駆け引きがあるのです。
競輪場は、だいたい1週400mだったりするので、2週は全力で走れません。
1週半は、ゆっくり走り、最後の半周を競うのが普通なのです。
で、私、2年生の時、出場したときは、8位上がりでした。
そして、予選通過したのは良いものの、1位の人との対戦は歯が立たず、
順位決定戦も、あっと言う間に終わってしまいました。
実力の差は歴然だったのです。
3年の時に、再度、スプリントに望みました。
作戦があったのです。
予選は、またもやギリギリの8位で通過。
1位の人との差は、やはり歴然としていて、完敗でした。
5位〜8位決定戦で、普通の実力ならば8位になるはずなのですが、
頭脳を使いました。
私は、8位上がりなので、ノーマークでした。
普通、最後の半周を、カントを使ってかけ下ろすので、みなゆっくり競輪場の上段部分を走ります。
そこで、隙を見せて、一人下を走り…もちろん誰も付いてこない…。
差は開き、途中から残り1週くらいでダッシュを仕掛けました。
他の3人は、あわてたが、既に遅し。
差が開いていたので、残り半周で更に傾斜に駆け上がり、勢いを付けて
一人だけ、下り坂を使って、先着ゴール。
5位になることができたのです。
その年は、4時間耐久レース(二人組)でも優勝したり調子が良く、
次の年は、飛躍の年となるはずが、次の年の早々、落車で鼻の骨を
骨折し、私の大学時代の自転車生活は終わってしまいました。
しかし、あの順位決定戦のゴールした瞬間は嬉しかったのを今でも覚えています。
と言っても、はじめたのは、1年の終わりからなので、短い期間だった。
大学生で強い人は、高校から自転車をやっているとか、猛練習をしている人とかである。
唯一、学生の大会で貰った賞状が二つありました。
それは、東日本の新人戦のスプリントの物です。
新人戦とは、自転車を始めて1,2年目の学生が出ることのできる大会です。
なので、通常は、1年生と2年生なのですが、僕は2年からなので、2年生、3年生のときに出場しました。
特にスプリント選手ではないのですが、スプリントと言う競技に出てみたのです。
スプリントの競技とは…
まず、予選があります。
予選は、一人で走ります。
だいたい競輪場を2週するのですが、最後の200mのタイムを計測します。
上位8名が次のラウンドに進めます。
次のラウンドは、一対一の対決になります。
予選で1位の選手と8位の選手、2位の選手と7位の選手という風に、これも競輪場を2週して先にゴールした方が勝ちになります。
先に2勝した方が、トーナメント方式で勝ち進んでいきます。
順位を決める必要があるので、最初に負けた人(5位から8位に属する人)は、4名同時にスタートして、その着順で順位が決まります。
とてもシンプルでは、ありますが、駆け引きがあるのです。
競輪場は、だいたい1週400mだったりするので、2週は全力で走れません。
1週半は、ゆっくり走り、最後の半周を競うのが普通なのです。
で、私、2年生の時、出場したときは、8位上がりでした。
そして、予選通過したのは良いものの、1位の人との対戦は歯が立たず、
順位決定戦も、あっと言う間に終わってしまいました。
実力の差は歴然だったのです。
3年の時に、再度、スプリントに望みました。
作戦があったのです。
予選は、またもやギリギリの8位で通過。
1位の人との差は、やはり歴然としていて、完敗でした。
5位〜8位決定戦で、普通の実力ならば8位になるはずなのですが、
頭脳を使いました。
私は、8位上がりなので、ノーマークでした。
普通、最後の半周を、カントを使ってかけ下ろすので、みなゆっくり競輪場の上段部分を走ります。
そこで、隙を見せて、一人下を走り…もちろん誰も付いてこない…。
差は開き、途中から残り1週くらいでダッシュを仕掛けました。
他の3人は、あわてたが、既に遅し。
差が開いていたので、残り半周で更に傾斜に駆け上がり、勢いを付けて
一人だけ、下り坂を使って、先着ゴール。
5位になることができたのです。
その年は、4時間耐久レース(二人組)でも優勝したり調子が良く、
次の年は、飛躍の年となるはずが、次の年の早々、落車で鼻の骨を
骨折し、私の大学時代の自転車生活は終わってしまいました。
しかし、あの順位決定戦のゴールした瞬間は嬉しかったのを今でも覚えています。