01 30年を振り返って
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30年を振り返って
30歳になると言うことは、30年を生きたと言う事です。
今までの30年間を振り返ってみようと思う。
小学校入学まで
昭和53年長野県伊那市に3人兄弟の末っ子として産まれた。
なぜか幼い頃の記憶はあまり無い。そう言うものなのか。
特に、保育園の時に引越しをしたが、引越し以前の記憶は乏しい。
引越しして保育園が遠くなったのを覚えている。
保育園ではお昼寝の時間があり、布団を持っていって寝るのだが、毎回寒かったが我慢した。
誰のか分からない毛布が一つあり、それが自分のだと分からずに終わった。
年度末、布団を取りに親が来た時に自分の物だと知った。
小学校時代
6年間通った小学校には珍しく通知表と言うものがない学校だった。
自由に過ごした小学校生活だったと思う。
1年の時には「わらの家」を作って、2年から6年までは「人形劇」をした。
わらの家で想像力を磨き、人形劇で演じることを覚えた。
先生に殴られて、宙を舞うくらい吹っ飛んだ事もあった。
この時代に、痛めつけられて、うまい生き方を身に付けたかも知れない。
親の存在は怖い物だったというイメージがある。
あまり、思っている事、要望を口にしたことは無かった。
ただ、周りの友だちが新しい自転車に乗っているのが羨ましくて自転車を買ってもらった。
家にグローブとボールがあったので、毎日、壁に向かって遅くなるまで球を投げていた。
少年野球のチームに入りたかったが、それも言い出せなかった。
勉強の方は、兄と姉がやっていた公文を自分もやりたくて始めた。
面白く、続けた。いつの間にか算数が好きになっていた。
バイオリンも小さい時からやっていたが、やらされている感があり、面白くなかった。
結局、中学二年頃まで嫌々やっていた。
中学校時代
やっと自由に野球が出来ると思い、迷わず野球部に入部した。
周りは、少年野球を経験している人ばかり。
レベルの差が感じられた。
その差を埋めるために頑張った。
朝の練習は7時半からだったが、早起きして他の人より30分〜1時間早く行き自主練をした。
いつの間にかチームで一番、肩が強くなっていた。
遠投をすると、狭いグランドではあったが、高い外野のフェンスを超えるくらいだった。
守備もうまくなっていた。
ショートのレギュラーをゲットできた。
新しいグローブを買って貰う事を、お願いする事さえ苦労した。
使っていたボロイグローブを見せたら、買ってもらえた事を覚えている。
また家から中学校までは3キロ弱あった。
よく登校・下校の際に、その間を走っていた。足腰は強くなった。
ママチャリに乗って地元から隣の県の甲府まで、約100キロを走った。
甲府に着いたら、もう走れなくなった。迎えに来てもらった。
家か、学校の柔道の授業だか分からないのだが首を痛め1週間近く入院したこともあった。
理科の授業、いつも授業中騒がしくて、寝てた私は先生に騒がしくなくて褒められたこともあった。
高校時代
実は、高校が家から一番近かった。
目と鼻の先にある。近いが自転車で通った。
今、悔やまれるのは野球部に入らなかったことだ。
親に反対されて諦めた。諦めなければよかったと今は思う。
どの部にも属さず、過ごした。でも、毎日が何故か楽しかった。
自転車に乗って、松本市へ行き、浅間温泉に入って帰ってきた。
途中、ハンガーノックになり、ドライブインに入った。
400円で食べれるメニューは何も無かったが、400円しか持っていないの事実だった。
これで何かくださいと言ったら、ご飯・味噌汁・漬物・(何か一品あった)を出してくれた。
勉強は、好きな数学しかしなかった気がする。
受験勉強をしないといけない時期にも勉強をせずに遊んでいた。
勉強より、あそびの方が面白かった。
友だちとキャッチボールもよくした。
体育の授業でソフトボール投げと言うのがあった。
周りはよくて40mとかなのに僕は85mを投げた。
それ以来の体育の成績はちょっと良くなった。
センター試験で650点を取り、2次試験の勉強をしないといけないはずなのに、更に良い気になり遊んだ。
挙句の果てに、大学には受からなかった。
浪人時代
親には申し訳ないと言う気持ちで浪人生活に入った。
東京の北新宿での下宿。風呂が無いから銭湯へ通った。
この期間は、意地から勉強をした、と思う。
浪人したからには国立大学に行くしかないと言う思いだった。
前年の反省から、2次試験の対策も、しっかりした。
試験は、英語・物理は全然出来なかったが、数学と化学はかなり出来た。
終わって答案回収の時、周りを見渡し白紙の人が多く、受かったと思った。
やっと辛い1年間が終わった気がした。
大学時代
これからの時代コンピュータだろうと思い、情報系の学部を選んだ。
そもそも、大学は遊ぶ所だと勘違いしていた。
浪人時代も、そのつもりで勉強が出来た。
大学生は以下の様に分類されるのだろうか。
・勉強に励む人
・部活に励む人
・バイトに励む人
・何もしない人
勉強するつもりは無かったが、何かに打ち込みたかった。
野球をやりたかった。でも、高校野球をしていない実力差は大きく諦めた。
チームプレーじゃなくても出来るスポーツを探し、自転車をやろうと思った。
昔から好きだったし、すぐに決断した。
毎日、朝5時からの練習が始まった。1日60キロくらいを走る。
休日は100キロ〜200キロ。
大学時代、いい所で2回骨折した。骨折が無ければ、もっと強くなっていたかも知れない。
20歳の誕生日に自動車免許を取得した。
大学1年の夏休みに、山形県の酒田で合宿免許に参加した。
安い上に、ご飯が美味しくて最高であった。
免許を取った翌日にスクーターを購入。
その翌日に、実家までの約350キロをスクーターで走った。
のちに、その道のりを自転車で走ることになる。
自転車をやっていたので、色んな所でレースがあった。
青森県・秋田県・岩手県・福島県・・・と東北地方は全部行った。
静岡の修善寺には何回も行った。
東名高速道路で自動車の屋根に積んでいた自転車を落とした事もあった。
(その瞬間に30万円の後輩の自転車が粉々になった。)
部活の先輩が大型免許を取ると言うので自分も取る事にした。
大型自動車と大型自動二輪のダブル講習。35万円くらいしたと思う。
冬に入り、寒かったので大型自動二輪の講習は6ヶ月くらいかかって終わった。
免許を取得してから今まで、どちらも一回も乗ったことが無い。
大学で、勉強を真面目にしなかったにも関わらず、4年間で卒業できたのは奇跡であった。
大学時代にスクーターを3台盗まれたのも良い思い出だ。
1ヶ月半で辞めた新聞配達のバイトも辛かったけど、いい収入だった。
運転免許を取って、スクーターで実家へ帰り、大学に戻って直ぐに始めたバイトだった。
寿司屋のバイトもしていて、12時過ぎに帰ってきて、3時から新聞配達は体が持たなかった。
大学1年の後半から自転車を始めてからは、寿司屋のバイトの頻度もメッキリ減った。
毎月13万円の仕送りを貰いながら、4年間を通して、いづれも2万円以下の所に住んでいた。
仕送りの大半は自転車関連に消えていった。
逆に言うと、自転車にお金が掛かるので、2万円と言う安い所に住んでいたのかも知れない。
ただ、2万円と言っても何の苦労も無かったし、不自由も無かった。
社会人時代
大学の推薦枠で入った会社。先生のコネが無ければ落ちていただろう。
現に、1回の面接の試験で、先生の所には「申し訳ございませんが・・・」と連絡があったと言う。
そこを何とか・・・と言う先生の一言で入社した会社である。(この事実を知っている人は少ない。)
自分の実力は0%で入った会社。頑張らなければいけないと、その時思った。
配属は関西だった。同期で一人同じ部署に居た友人。
とても励みになった。SEと言う立場。
今まで知らなかった事ばかり。人生の中で一番勉強したと言うくらいに勉強をした。
まさに現場であったので、色んな事が身に付いた。
社会人2年目からはSEから営業に転向。
知識があるから売れると言うイメージがあり、頑張らざる負えなかった。
大阪の町を自転車で走り回り、飛込み営業を何度もやった。
ちなみに自転車で回るのが早いし一番効率的。
電車を使うと結局は駅まで歩いて、電車降りてまた歩く。
例えば、心斎橋まで電車を使うと30分くらい掛かるが、自転車なら10分で行く事が出来る。
往復で40分、人より多くデスクワークも出来る計算になるのだ。
一度、門真まで1時間弱掛けて自転車で行った事もあった。
夏真っ盛りの時期で、汗だくになり、その時だけは非効率を感じたのだが。
営業のスタイルも、日々効率性を追及したし、それが面白かった。
営業になったばかりの頃に先輩から教えられた言葉を肝に銘じていた。
「営業は恋愛と一緒だ。お客さんを女だと思って口説け。」
さらに「出来る営業は、いい女を手に入れるものだ。」と。
この言葉は、営業について深く考えるきっかけになった。
運にも恵まれていて、アメリカ旅行に2度も行く事が出来た。
両方とも、サンフランシスコとシアトルであったが。
1回目の際に、偉い人とは知らずに副社長の膝の上に座った事は笑い話である。
併せて個人的に海外旅行もした。
タイへ台湾へ釜山へ。どれも格安航空券を使ったり、頂いた船のチケットであったり。
貧乏旅行で、お金を掛けない所に美学を感じた。
自転車の旅行もした。
しまなみ街道の往復、琵琶湖1周、九州から四国(鹿児島-宮崎-大分-高知)へ。
会社の仲間と24時間リレーマラソンもした。
舞州で毎年行われていて、通算3回出場したか。
食べ歩きもしたなぁ。
加古川のかつ飯、福井のカツ丼、四国の饂飩・・・。
西の観光地も有名どころは攻めたかなぁ?
出雲大社、伊勢神宮、比叡山、高野山、鳥羽、鳥取砂丘、天橋立、白浜、小豆島、宮古島、屋久島、淡路島・・・。
温泉も好きだった。スーパー銭湯にも結構通ったし。
有馬温泉、下呂温泉、城崎温泉・・・等にも。
会社の仲間でチームを作って野球もした。
最初の年は練習ばかりだったけど、次の年には人も集まり試合も。
スノボも何回かしたし、テニスも数回した。
そう言えば、トライアスロンにも一回出場した。
結構、アクティブ派だったかも知れない。
最初の4年間は会社の寮の西宮市に住んでいた。
入社1年目の時、巨人が甲子園で優勝を決めたが、その瞬間を目で見たいと思い、自転車で甲子園に向かった。
無理して入ってやろうと思ったが、結局入れなくて、生でもテレビでも瞬間を見れなかった悔しさを覚えている。
会社の寮を出ないといけなくなった。
ちょっと高くても、通勤時間の削減を考慮した。
また通勤の満員電車も耐えがたかった。
結果的に、会社(梅田)から自転車で5分の新築マンションを借りる事になった。
月々、駐車場込みで11万円。
大学時代を通して、2万円の家賃の所だったので、社会人になって、良い所に住もうと言う気持ちがあった。
その家賃の為に、大阪に住んでいた1年半は貯金が全く出来なかった。
今後
郷に入れば郷に従えと言うが、この国の人の調子に自分を合わせていたら怠惰な生活を送ってしまう。
常に、自分を戒めていなければいけないと思う。
ナミビアにはカリスマ的な存在が必要なのだと思う。
住民が反対しても、正しい道を突き進む人の様な存在。
官人でも民間人でも、引っ張る人が一人でも居れば、変わるのはずだ。
潜在的な物はあるはずであるが、それを奮い立たせる物が無いように感じる。
そのように影響力を住民に与えるようなナミビア人の指導者が出てきて欲しい。
今後のナミビアの発展の為に。
唐突の無い文章になってしまいましたが、以上。
最終更新時間:2011年05月24日 01時58分32秒